小室眞子さまの名前占秘術(^^♪なぜ名古屋は天下取りの場所だったのか?お名付け開運堂

戦国時代に天下人が次々に出た都市それが名古屋です。

※1467年(応仁元年)の応仁
の乱から、1615年(慶長20年)

大坂夏の陣で、豊臣家を滅ぼ
した徳川家康が江戸幕府を開
くまでの約140年間

これは単なる偶然ではありませ
ん。

なぜなら

天下を取るために名古屋は
絶妙な場所にあります。

まず、
織田信長が那古野城から出て
清須城を手に入れ、岐阜へ進
み、
安土城へと勢力を伸ばしまし
た。

※なごや城は、戦国時代に尾
張国愛知郡那古野
(現愛知県名古屋市中区)に
あった日本の城
きよす城は、尾張国春日井郡
清須
(現在の愛知県清須市一場)
にあった日本の城
あづち城は、琵琶湖東岸の近
江国蒲生郡安土山
(現在の滋賀県近江八幡市安
土町下豊浦)にあった日本の

これは
現在の東海道本線と同じルー
トで
京を目指していたのです。

名古屋市→岐阜県→滋賀県
→京都府

信長は京を征服したかったけ
ど、
明智光秀の反乱で頓挫しまし
た。

※織田信長は、日本の戦国時
代~安土桃山時代の武将
織田信長(1534~1582)の天
下統一事業を支えてきた明智
光秀は、
本能寺の変で主君を討った、
裏切り者のイメージが強い人物

そして天下を手中にしたのが
あの豊臣秀吉でした。

※豊臣秀吉は、尾張の人
(1536~1598)安土桃山時代
の武将。

尾張の中村という田舎出身の
最下層の身分でありながら
信長に重用されて、

明智光秀を討って
天下人になったわけです。

秀吉は大坂城を造り、
そこを都としました。

※大阪城は、摂津国東成郡生
玉荘大坂に築かれ、
江戸時代に再築された日本の
城。別称:錦城

秀吉の没後、
天下を取ったのは徳川家康で
す。

徳川家康は、戦国時代から江
戸時代初期にかけての武将

天下人が3人とも名古屋圏か

輩出しています。

甲斐の武田信玄や
越後の上杉謙信も名将でした

天下を取るには京都が遠すぎ
ました。

※武田信玄は、現在の山梨県
の戦国大名
上杉謙信は、現在の新潟県な
ど北陸地方を支配した武将

小室眞子さまの名前占秘術(^^♪なぜ名古屋は天下取りの場所だったのか?お名付け開運堂

つまり

地元で活躍しているうちに
名古屋人に天下を取られちゃっ

というわけです。

名古屋って
天下取りに絶好の地だったとい
うわけ・・・

ところが

天下を手中に収めた名古屋人
たちは
名古屋を都にしませんでした。

信長は京を狙い、

秀吉は大坂を作り、

家康は江戸を開いたのです。

小室眞子さまの名前占秘術は動画の後半です

3人とも名古屋からスタートして

天下を取ったあと名古屋に帰り
ません。

名古屋は天下取りのために
出かける場所ではありますが

天下を取ったら
戻ってくる場所ではないのです。

なぜなら名古屋には
昔のことをよく知っている連中が
多く

馴れ合い精神が強いので、

天下人を

妬んで引きずり降ろそう
とするからです。

名古屋人は天下を取った人物
に対して
「昔をよう知っとるツレ」

というレベルに引き下げようとし
ます。

信長も地元民に言わせれば、

たわけた格好でうろつく『うつけ
殿』
ということになります。

うつけ殿が調子良く天下を取っ
たけど

「昔をよう知っとるでね。
威張られてもピンとこんわ」

というのが名古屋人の反応。

秀吉も「百姓出のサル」とか

「殿様のぞうり取りが関白?」

と、からかわれてしまいます。

だから秀吉は
名古屋に帰りたくなりません。

家康も「元は那古野城の人
質」と
蔑まれてしまいます。

これが

名古屋は天下を取るのに最適
なのに
天下を取ったあと帰りたくない理
由です。

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